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古市憲寿『僕たちの前途』を読む

この本を手にとったのは、ある友人の奨めがきっかけです。忘れもしない半年前、冬晴れの朝、友だち接客全開の某シアトル系カフェで話し込み、そのまま牛タン屋に足を運んでご飯をいただきつつ、懇々と説かれたのを覚えています。

著者については、恥ずかしながら「あら、モデルみたいな子が、まぁ随分厚い本を出して…」ぐらいのおばちゃん的認識にすぎませんでした。本人曰く「若手起業家の社会学」を目指し「そろそろ書きたい博士論文の下書きを兼ねた」本だそうです。

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ただ結局、表向きの問い――「今の時代、働き方をどうするか」――には、あえて触れないことにしました。またこれをダシに「私自身の前途」を考えることもやめます。なぜなら本書は、この場で正面から検討に堪えるビジョンを示していないからです。むしろ、あえて著者の土俵に深く乗りかかって世代論を掘り下げ、本書に描かれざる地平を読み解いてみます。充実したfacebookページや、出版社による紹介ページもあわせてご覧ください。

[1]意外にも、団塊の世代との連続性を強調

起業というと、やりたいことにそのまま驀進した印象があり、「日常の延長としての起業」〔本書p.43〕、「仕事が遊びで、遊びも仕事」〔本書p.75〕という表現が似合います。若者起業家論といえば、ここに光を当て、過去の世代との違いを際立たせる訣別的な宣言がふつうです。

ところが本文には「新しいはずの起業家集団の生態が、実は明治時代以前の家族と似ているのは面白い」〔本書p.37〕、「「人格」に依拠して、ネットワークを広げるという仕事の仕方は、人類史において交易の始まりと同じくらい「古風」である」〔本書p.61〕等々、やや滑稽に見えるほど、過去との連続性や共通性を強調する記述が目立ちます。

目次からも明白なのは、補章として置かれた「団塊の世代」を代表する二人との対談です。

社長・島耕作との対談では、古市くんが話し手として前面に出る瞬間があります。島氏にインタビューする流れを打ち破って、にわかに相手へ歩み寄り、互いの共通性をほのめかす発言は、唐突ですらあります。

古市 ただ今日お話しして気づいたのですが、実はテコットのような大企業で働くことと、僕たちのように自分たちで立ち上げた小さな組織で働くことに、あまり違いはないのかもしれません。

 というと?

古市 島さんはすごく仕事を楽しんでいますよね。僕たちも仕事か仕事じゃないかの境界線が曖昧なだけで、考えてみれば飽きることなく仕事ばかりしています。友だちはたくさんいますが、みんな仕事上での付き合いもある大切な「仲間」です。小さな企業が集まって大きなプロジェクトをこなすというのも、大企業の事業部制といった制度と近いといえば近い。

 なるほど、働くことの本質は昔も今も変わらないというわけですね。

〔本書p.321〕

読書人口の多数を占める団塊の世代に媚びる機略でしょうか。はたまた字面どおり、働き方の本質に迫る深い含みがあるのでしょうか。

[2]逆に、ニューアカ・バブル世代をこき下ろすふしが濃厚

逆に、年齢的には近いはずの、すぐ上の世代には「毒舌っぷりがかつての宮台真司を思わせる~」〔本書p.286, 288等頻出〕のように、もっぱら歯に衣着せぬ物言いが向けられます。

1980年代日本の社会学は「ニュー・アカデミズム(ニューアカ)」の興隆を経て、大澤真幸氏・宮台真司氏など多くのタレントを生みました。両氏の博士論文を書籍化した『行為の代数学』『権力の予期理論』は、いずれも難解な数式を駆使した著作として知られています。これに対して古市くんはじめ30歳前後の社会学者たちは「どこにでもいそうな若者でいて、ものも知っている」。

とくに「僕」=古市くんは「何もとりえのない」「凡々たる人」イメージを強調します〔例:第二章註63〕。しかし、彼は友だちと共に興した企業で働き、大学院で研究しながら、いまの若者代表として各界で発言しています。背後には有力な政財界・有名大学・彼を露出するメディアという「つながり」が築かれています。本書を奨めた友人はそれを「パッと見、手が届きそうでいて、届かない」と評しました。たとえるならば、ニューアカ周辺の世代が強硬な理論武装をもってデビューしたのに対して、彼の鎧は「一見ありふれたカジュアル着のようで、実は高級なブランド服」と言えるでしょう。

[3]依然、「僕」のリアリティは浮き彫りにならない

「僕たち」の群像のなかで、「僕」はどこにいるのか…これが最後のポイントです。

彼は自身の仕事をめぐる関係性を「家族よりも本当の家族」と評します〔本書p.36〕。ですが、リアリティあるつながりとは、友だちの慣れ親しさにかぎらず、血縁ゆえの情念や目を背けたくなる重みと切り離せず、それゆえに一層、他をもって代えがたいのだと想像します。ここにも、世代のフレームが陰画のように浮かび上がります。バブル世代が生きる人間の40代はしばしば、自身が人生の折り返しを迎えると共に、子世代の目覚ましい成長、親世代の老いと死別に向き合うことも少なくない世代とききます。

軽やかな「僕たち」の生きざまは、これらのライフイベントに対峙しうるのでしょうか。そして、いったい古市くんは、ポートレートのどこに映っているのでしょうか――。

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