教育研究の現場が様変わりするなか「アカデミック・リテラシー」の重要性が叫ばれて久しい。振り返れば,議論は1990年代初頭の教養教育改革・大学院重点化などを契機に始まったが,本ブログでも古今の画期となる著作を振り返りつつ,その現代的意味を再考してみたい。
※12月2日にAmazonへ寄せたブックレビューの増補再掲
著者の鈴木哲也氏は京都大学学術出版会で編集長を務め,かつ現役で本づくりの最前線に携わる「学術書の編集者」でもある。前著『学術書を書く』に続く待望の姉妹編となる。バランスのとれた語り口で書かれた本書は以下の点で評価できる。

まず「分野の位相(鈴木氏の言葉では「自身の専門に近い遠い」)」と「時間」の2つを軸に考えるという方法的な提示が特徴的である(4章)。これは,具体的な選書の例示のみに走ると,個人ごとの問題関心や素養はもとより、学統や人的ネットワーク(鈴木氏の場合は多数の人類学者との協同作業や西洋古典叢書の刊行経験など)までもが反映されやすいからだろう。そこをはじめに留保しつつ,選び方の軸を明示することで,いわゆる名著の羅列と一線を画し,選書の観点を語る立場が鮮明に打ち出される。
もう一つの特徴として,21世紀の情報流通における書籍の意味を考えさせる点がある(11章)。通俗的な読書離れへの慨嘆ではなく,グローバルな産業構造の下での「知の評価」を踏まえたうえで,「『専門』を超えた対話の場」と説く。そして,これを裏付ける出版社としての実践(「専門外の専門書を読む」読書会)を紹介している。
このように,限られた紙幅で中庸かつ説得的な議論を展開しているとはいえ,個別の選書にはいくつかの疑問も残る。例えば史学史で言えば,リン・ハントと羽田正の例示は明らかに近年のグローバル・ヒストリーを意識したものだが,それ以前に隆盛したアナール派,およびそのよき紹介者であった二宮宏之の等閑視されうるのだろうか(著者の真意に即すれば,それを意味しないことは明らかであるにせよ)。同様に物理学史でも,ハイゼンベルクを引いて,シュレーディンガー(特に『生命とは何か』)やプリゴジンを引かないのはなぜか,あるいはそもそも学術とはと考えるとき,スノーの「二つの文化」に触れないのはなぜか,といった点は,各々の読者が自身のルーツに照らして考えるべき課題である。