「科学」をめぐる動きが最近にぎやかです。ノーベル賞を誰が獲るか、は日本のメディアが競って報じる冬の風物詩ですが、学術と政治の相剋など、厳しい話題も以前より聞かれるように思います。ところで「科学」(あるいは「科学でない」)とは何なのでしょうか。
筆者は高校時代いわゆる文系に属しました。伊東光晴『ケインズ』や遠山啓『数学入門』(いずれも岩波新書)に触れ「数学で世の中の動きを読み解くって何だか面白そう」と思い、大して計算力もないのに、難問好きの先生を捕まえては入試問題の個人特訓(?)を受け、経済学部に進みました。結局は大して意味のないことと感じ、政治史・国際関係論に専攻を転じました(やや短絡的に過ぎた気もしますが、とは言えこの「無意味さを自分で体感する」ことの大切さは、その後の人生でも折々実感しました)。
なぜ意味のないことと感じたか。おそらくこの種の思考法では、方法の仰々しさに重きが置かれて、その前提や(「合理的経済人」の架空さたるや!)結果の省察が必ずしも厚みを持たないことに、ある種ガッカリしたからだったように思います。(いまはビッグデータなるものも普及しており、実証科学風の傾向が一層強まっているとは想像しますが、大勢は変わらないでしょう。)
歴史を振り返れば、こうした対立は今に始まったことでないようです。最近では、科学史家の隠岐さや香さんがあるエッセイで次のように述べています。
人間の想像力が創り出し、感情をかき立てる言語(詩)と、理性的に真理や事実関係を論じようとする言語(哲学)に対立関係を見出す考えは、西洋世界に根強く存在した。そして、近代化にあたり西洋の学問を編入した我々も、部分的にせよその対立を引き継いでいるのだろう。…
「撹乱されつづける対立-
「文学」と「論理」をめぐって」『つれづれ』42号 2022年11月(数研出版)所収
隠岐さんが筆を執った背景には、大反響の自著『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書)の一節が、学習指導要領のもと新設された「論理国語」の教科書に掲載される、との動きを受けてのことだそうです。
ところが色々な歴史上の例を挙げた上で、本エッセイは「恐らく、「論理」を「文学」から切断しようとする人達が考える以上に両者の境目は曖昧なのだ」と閉じられています。論理的な日本語とはなにかという問いは、それだけで大きな難問です(そう言えば「日本語は論理的でない…」云々という先入観もそこかしこにありますね)。
それはさておき、宇宙物理学者の須藤靖先生は、あるPR誌に人気の連載で最近こんな一節を書かれています。
物理学の目標の一つは、…いわゆる要素還元主義と呼ばれる方法論にもとづいてかなり成功を収めてきた。…一方で、そのように世界を切り刻み細かく分割してしまうことで、かえって本質が失われる現象も数多い。…それらを理解する上では、標準素粒子モデルはほぼ無力である。…言い換えれば、この世界の多様性をありのままに愛でる姿勢なくしては、世の中の森羅万象は理解できないのだ。植物学、あるいはより一般に博物学とはその種の科学である。
須藤靖「世界を切り刻む科学とありのままに愛でる科学」『UP』599号 2022年9月(東京大学出版会)所収
こうしたエッセイの示唆するのは、(1)思考と叙述のスタイルを分ける境界はさほど明らかでなく、(2)一般に論理的・分析的な思考の積み重ねとみなされる科学の中にさえ「分析的」思考に収まらない世界観がある、ということではないでしょうか。いずれも、筆者の拙い小文で取り扱うには大きすぎる問題ですが、今後も機会を捉えて綴ってみたいです。