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『世界の読者に伝えるということ』を読む

この題名に自分の仕事との接点を見出し,やがて手に取るに至りました。メッセージを伝えるために必要なエッセンスが,過不足なく的確にまとまっている…一方で何か足りないものを感じて時が無為に過ぎ,書評というかたちにまとめるには時間がかかりました。その反動でやや長くなりますが,三つのパートに分けて書評します。

河野至恩[2014]『世界の読者に伝えるということ』講談社

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=288255

本書の視点にある学術的背景

本書はテーマに臨むにあたり「地域研究」と「比較文学」の視点を紹介することから始めています。「地域研究」とは研究や実践の対象のみならず,その国・地域の分野から社会を包括的に理解しようとする研究。研究対象として選ばれる「地域」には非対称性があり,アメリカが〈異なる文化〉を理解する際の軍事的なツールとして20世紀に発展しました(本書 pp.243-245)。「比較文学」とは,ある文化を他の文化と一定の普遍的な基準で比べて共通性や差違を見出す研究。両者は固有性と普遍性のバランスの問題として,人文社会系の方法論で外国を研究するときに必ず付いて回る論点です(例えば,政治学では待鳥聡史[2003])。

そのうえで本書の問題意識は,文化の固有性に固執することを離れ,普遍性から眺めてみよう,という立場に思われます。以下に引用します。

こうした文化の語り方〔注:日本文化論的な安易な結論〕は,「世界で人気がある」といっても、日本中心の視点を離れていない。「クールジャパン」を巡る議論を含め,最近の日本発の文化についての議論で一番欠けているのは、「あえて世界の読者の視点から見る」ということではないだろうか。〔本書p.19〕

「世界の読者」の視点とは何か?

そもそも,なぜ「日本中心の視点」が問題視されるのか。
著者は「日本人自身が日本文化論を語るときに,日本人や日本文化が特殊だという議論の裏に,「自分たちが特別だ」という日本人のナショナリズムがある。また,それが「だから日本文化は日本人にしかわからない」と,…」(p.160)と述べています。日本の特殊性を強調するあまり文化を内向きにとどめてしまう懸念があるということです。この「文化とナショナリズム」(青木保)の問題は主として文化人類学の領域で長く論じられてきました。

ではそこで導入される「世界文学」とはどういうものか。

個々の作品を読み味わったりするのではなく,データや概況などから,いままでの国・言語別の文学史にはないスケールの世界文学史を構想する。「個々の文学作品を読まない文学史」(p.122)

こうした「世界文学」の一つの可能性として,著者は以下の点を挙げています。

…特に,翻訳をベースにした研究のありかたは,日本文学の専門家と,必ずしも日本語で文学を読まない比較文学の研究者とのコラボレーションの可能性を感じさせる。(p.125)

たしかに従来の研究は「日本語と日本文学に精通した」日本文学の専門家が占めてきたため,「世界文学」が既存の分野を超えるメリットはあるでしょう。ところで本書は「世界の読者」をこう定義しています。

日本の外の世界のどこかにいる,しかも,日本の文学・文化とは直接関わりを持たない,想像上の読者〔本書p.17〕

世の中にきっといる想像も付かない存在への理解?とでも言いましょうか…ともあれ,仮にこれを作業上の定義として設定したうえで,日本人である私たちが,実際に「世界の読者」を想像するためのきっかけ,それが本書に期待されている役割のように思いました。では,その期待がどれほど満たされているでしょうか。

「自文化が異文化のなかでどのように読まれるか」という想像力を養ううえでは,鏡合わせで,自身の異文化体験――「異文化を自分がどのように捉えたか」――が手がかりになるはずです。しかし本書で例示される外国読者の層は「日本人以上に日本の文学・文化に精通し関心をもつ留学生」。多くは著者の周りで日本研究に従事する,あるいは志望するアカデミアの人々。また村上春樹や東浩紀のような書き手がどれほど広く受け入れられているのかも疑問です(あるいは「細かく分かれた専門的な関心」が散在しているのが,現代の文化状況かもしれませんが…)。
以上の例からは,先に定義されたような「世界の読者」が幅広く収められているとは思えません。より一般的な読者の視点をエピソード的に盛り込むことで,本来ある「世界の読者」にも歩み寄れたのではないかな,と感じました。

あらためて「異文化理解」とは

問題と感じた点ばかり指摘しましたが,本書が異文化理解(自文化を異文化に受け入れてもらう)に向けた重要な提起の書であることは確かです。日本は明治期から繰り返し国際化が説かれつつも「内なる国際化」は必ずしも進んできませんでした。なぜでしょうか。例えばその要因を「日本は島国だから…」といった日本らしさに求めると,冒頭に掲げた「日本特殊論的な理解」に陥り,思考が停まってしまいます。最後にこの思考の手がかりを探って締めくくりとします。

例えば大学のカリキュラムはどうでしょうか。在イタリアのビジネスプランナーが20年近く前に日本のヨーロッパ文化論を評して以下のように綴った一節は印象的です。

非常に大雑把な感想ですが,…授業を構成するコンセプトが,およそ20世紀半ばまでの紹介で止まっているような印象を受けました。文化を静的ではなく動的に捉え,21世紀の欧州文化を相対的に捉える意図を想像させるカリキュラムは数少ないです。〔安西洋之[2008],p.185〕

河野さんは,ここで批判される静的な「文化」観にきわめて慎重です。いま生き生きと変化を遂げるポップカルチャーを積極的に取り上げているのもその努力の表れでしょう。この著書で,自文化をよりよく伝えるには,自分のなかに複数の視点(「世界の読者」の視点)をもつことの意義を説いてきました。しかし糸口とするにはもう一歩踏み込んで「それは異文化理解と一体だ」という視角が示されると説得的であるように感じました。

そして,異文化理解の要点としてはもう一つ。

発信型を大いに推進すべきです。しかしながら、受信型からの転換に際し,送信すべき相手の文化への軽視が始まったといえます。〔前同,p.200〕

安西さんの著書と河野さんの著書の間には,実に16年の時が流れています。スポーツや芸術の分野で卓越した才能が育ち,その面で自信に裏打ちされた言説も増えているように思います。ですが,もしも「欧米に伍するようになってきた」とする自己認識が,相手への軽視を招いているとしたら? 稿を改めて考えてみたいと思っています。

文献ガイド

安西洋之[2008]『ヨーロッパの目,日本の目――文化のリアリティを読み解く』日本評論社。

待鳥聡史[2003]「理論モデルによる外国政治研究の可能性――現代アメリカ政治研究を例として」『阪大法学』第53巻3・4号,pp.951-977.


2件のコメント

  1. itaru.saito より:

    まさに,本書で紹介された取り組みが立ち上がっています。ところで装丁のカラーリングは「日本らしさ」の演出でしょうか。 http://www.jpic.or.jp/japanlibrary/

  2. itaru.saito より:

    上掲のJapan Libraryに関して,流通面でもプラットフォームが確立した模様です。受注事業者の2月9日付けプレスリリース。http://www.mediado.jp/service/1340/

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